・所在地:大阪府藤井寺市青山3丁目

・時 期:6世紀前半
・時 代:古墳時代後期
・形 状:前方後円墳
・特 徴:-
・指 定:宮内庁治定

【概要】
宮内庁により「埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)」として第二十四代仁賢天皇の陵に治定されている。日本書紀の記述に基づくもので、古事記に仁賢天皇に関する陵の記載はない。

古市古墳群に属する前方後円墳で、「仁賢天皇陵」「野中ボケ山古墳」とも。6世紀前半の築造と考えられ、墳丘長122メートル、前方部の幅107メートル・高さ13メートル、後円部は直径65メートル・高さ11.5メートル。

陪塚として、野々上古墳(大阪府・羽曳野市)などがある。

南東のくびれ部に造出しがあり、周囲は濠で囲まれている。1975年と1979年の大阪府教育委員会による外堤調査により、後円部北東側の堤と前方部北西側の堤で円筒埴輪列が発見された。また、1981年の羽曳野市教育委員会による外堤調査により、前方部北西側の堤に接する斜面で2基の埴輪窯が発見された。

江戸時代中頃の河内の仏僧・覚峰の研究によれば、この陵墓の「ボケ山」は仁賢天皇の名であるオケノミコのオケの誤りとしている。あるいは訛ったものとも考えられる。

仁賢天皇は、第十七代履中天皇の皇子イチノベノオシハが父。弟に第二十三代顕宗天皇がいる。イチノベノオシハが第二十一代雄略天皇に惨殺されたために、弟とともに播磨に落ち延び、身を隠す。雄略天皇の子で、第二十二代清寧天皇が崩御し、皇位継承者が不在となった際、播磨の地で兄弟が発見されて、都に呼び戻される。

播磨から呼び戻されたのは弟の歌のおかげ、とし、皇位を弟に譲る。弟による父の仇・雄略天皇の陵破壊を寸前で食い止めるなど、弟をサポートする姿が古事記に描かれている。弟が崩御後、自らが即位する。

父の仇である雄略天皇の娘カスガノオオイラツメと結婚するなど、個人的感情と政治を切り分けた姿勢も見える。カスガノオオイラツメとの間に第二十五代武烈天皇らをもうける。天皇家の系譜も参照。

父のイチノベノオシハの墓は現在、古保志塚(滋賀県・東近江市)に、弟の憲宗天皇の陵は傍丘磐坏丘南陵古墳(奈良県・香芝市)に、それぞれ治定されている。

また、父の仇として、弟の憲宗天皇が破壊指令を出し、それを受けて自身が機転を利かせて弟の末代まで残ったであろう悪名を未然に防いだことで知られる雄略天皇の陵は、隣接する円墳の島泉丸山古墳、方墳の島泉平塚古墳(大阪府・羽曳野市)に治定され、これとは別に河内大塚山古墳(大阪府・松原市)が「大塚陵墓参考地」として治定されている。

子の武烈天皇の陵は傍丘磐坏丘北陵古墳(奈良県・香芝市)に治定されている。別に、陵墓参考地として、新山古墳(奈良県・広陵町)が宮内庁により管理されている。

娘で、古事記には記載はないが第二十七代安閑天皇の皇后となる春日山田皇女と同一人物と思われるカスガノオダノの陵は、高屋八幡山古墳(大阪府・羽曳野市)に治定されている。

世界遺産への登録を進めている百舌鳥・古市古墳群のリストにおいて、「仁賢天皇陵古墳(にんけんてんのうりょうこふん)」として、前方後円墳(122m)、NO.F38で設定されている。百舌鳥・古市古墳群のリストにおける古市古墳群のリストも参照。
ボケ山古墳(大阪府・藤井寺市)
【関連サイト】
野中ボケ山古墳  第24代仁賢天皇の埴生坂本陵に治定されている大王陵

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